自力自療

自力自療、という言葉からは、自分の力で自らを治す、癒すというイメージが浮かびます。

それは間違いではありません。

これが何故か、いつの間にか、「自分で動けば治る」というように解釈され、操体というものは、体操みたいなものだ、という誤解を生んでいる場合があります。

自分で動くのが操体だとしたら、世の中のヒトは何故からだを壊したり、病気になったりするのでしょう。
自分で動くのが操体ならば、それにはある条件が必要です。

「感覚のききわけ」

操体の最大のポイントは「感覚のききわけ」を行うことによって行う診断(分析)です「感覚のききわけ」を、無視したものは、操体ではなく、単なる体操にすぎません。

それは、対なる二つの動きを比較対照し、どちらが楽かつらいかききわける、第一分析のこともあります。
一つ一つの動きに、快適感覚がききわけられるのか問いかける、第二分析の事もあります。
動けない場合などに皮膚に問いかける、第3分析の場合もあります。

★感覚のききわけに慣れていない場合には、指導者(操者)の補助が有効です。なので、私共のような操体指導者が存在するのです。最初は、感覚をききわける勉強から始め、それから自力自動(一人で行う)へと学習していくのが効果的です。

「快適感覚を、ききわけ、味わう」

感覚というのは、その本人にしかわかりません。
操体は、その人本人しかわからない感覚(例えば、動かしてみてどんな感じがするのか)を、からだにききわけ(診断に当たります)、味わう
(治療に当たります)、というプロセスをとります。

なので、ひとりでやろうが、二人でやろうが、百人でやろうが、指導者の口頭の誘導だけで行おうが、操者が存在しようがしまいが、変わりはないのです。

だから、自力自療なのです。

「きもちよく動く」のは、操法にはいってから。

  • 「楽」と「きもちよさ」の違いが分かっていない指導者が多いのが現状です。
  • 「どちらがきもちいいですか」、いきなり「きもちよく動いて」という指示を出す場合「楽」と「きもちよさ」の違いを理解されていません。
  • 操体以外の手技でしたら、それほど厳密に「楽」と「きもちよさ」の違いがついていなくても治療が可能な場合があります。しかし、操体は「感覚のききわけ」が一番重要なので、重要なポイントとしているのです。

最初からいきなり「きもちよく動いて」と言われても、わからないのは当然です。「きもちよく動いて」の指示の下には、ちゃんとした手順があります。

診断(分析)
一つ一つの動きをゆっくりと試してみる。そして、きもちよさがききわけられるかからだにききわける。
「きもちよく動いて」ではなく、「ゆっくり動いて」感覚をききわけます。

きもちよさ(快適感覚)がききわけられて、そのきもちよさを味わってみたいという要求の有無をからだにききわけます。きもちよさでも、味わってみたいという要求がない場合もあるからです。からだの要求を満たしていたら、そこからが「きもちよく動いて」「一番きもちのいいところまでからだのツクリを操って」「きもちよさを十分味わって」となります。これが操法(治療)です

きもちよさに全て委ねて、一番きもちのいいところで、たわめて、きもちよさを味わって、きもちのよさが消えた後のからだの要求感覚に従う(脱力)という道筋を辿ります。

自分にしかわからない感覚をききわけ(診断)、快適感覚があればそれを味わう(操法)なので、一人でやろうが二人でやろうが、三人でやろうが百人でやろうが、「自力自療」です。足趾の操法も同様です。

なので、私達は「一人操体」とは言わず「自力自動の操体」と言います。